昔は

医療の発達もなく人々の平均寿命が短かったです。

それで人々は何かに命をかける信仰という行為を盛んにしていたのです。

医療が発達した現代においては信仰は軽んじられるようになってしまいましたが。

しかし人々の生きる苦しみなど生きるということの本質は変わらないと思います。

私が法華経の信の道に入ったきっかけは

34年前に起こったある哀しい事件がきっかけでした。

その事件が報道されるたびに私の心は不安定になりある日突然目の前に地獄のような光景が浮かんだのです。

これはもはや宗教というものに救いを求めるしかないと思い創価学会のことはほとんど知らなかった私は日蓮正宗に入信しようと決めました。

タウンページに載っていた寺院に向かうとご住職が待っておられまず創価学会ではなくむしろ学会を辞めた人々の集まりであることを聞かされました。

それから私の悩み事などを聞いてもらいました。

信仰は強制ではないとご住職は仰りましたが私は心の安定を願い信仰しますと意思表示したのでした。

当時の若い人なら親が信仰してるからなど人がほとんどの中私のような事例はなかなかない話しだったと思います。

 

今の時期は

世間の人々はクリスマスと浮き足立ってます。

そもそもクリスマスとはイエスキリストが生まれた日です。

クリスチャンでない人がなぜメリークリスマスと祝うのか私は不思議でなりません。

私は法華経を信じ敬う者です。

そんな私がイエスキリストの生誕をメリークリスマスと祝う道理などあり得ません。

そんなこと言ったら変わり者だと揶揄されるかもしれません。

しかし私はその信念を貫いて生きていきます。

黒歴史

変な人と関わってしまったとかいろんな失敗をよく黒歴史と言いますね。

私にもそういう黒歴史はあります。

前にはそういう黒歴史を嘆いてました。

しかし最近そういう黒歴史を嘆かなくなりました。

黒歴史があったから今の自分があると思うようになりました。

いろんな失敗から学んだんだなとも思います。

無駄なことにみえてそれも自分をステップアップさせた体験だとも思えてきてます。

老い

数年前まではよく数時間歩けるほど私は元気でした。

いつまでもこの元気さが続くと思ってました。

しかし今は膝を壊したこともあり20分歩いただけで脚が悲鳴をあげてます。

風邪をひいても1日寝たらすっかり回復だったのがなかなか治らなくなってしまいました。

老いですね。

生老病死の老いを実感しています。

しかし老いても生きていかなければなりません。

少しでも元気にと毎日軽いストレッチをはじめました。

 

 

病いであっても

ある日突然、いや徐々にでも頑張れなくなってしまうことがあります。

鬱などの精神科系の病気になってしまうとそうなってしまいます。

日常的に支障をきたすようにもなってきます

私はこの鬱に幾度かなりました。

そうなってくると南無妙法蓮華経を唱えるどころでなくなってきます。

私はに申し訳ございません、この病が治ったらまた南無妙法蓮華経を念じ唱えますと法華経に念じてました。

それでも法華経のご慈悲は私を見捨てませんでした。

鬱はじわじわとよくなっていきました。

そして南無妙法蓮華経を唱えられるようになってきました。

 

 

 

偉大なる法華経2

私は交通事故病飢えで死ぬ一歩手前までいったことがあります。

もう終わりだなと私は思いながら意識が遠のいていきました。

しかし私は助かりました。

今思えば助かったのではなかったのです。

法華経にお護りいただいたのです。

何の智慧も徳もない私をお護りいただける

法華経とは何と有難く偉大なのでしょうか。